心に残る詩 ネルーダ、平和の詩 宮 武 孝 吉 赤紙召集の父は戦死、本郷で営んでいた旅館は空襲で炎上、家業の主だった祖母は避難先で死亡ー戦争は一瞬にしてわが家の拠って立つ基盤を破壊した。 生き残った母は、私たち幼児三人を抱えて路頭に迷った。戦争への憎しみ、それは私の場合、母の悲しみと生活の苦闘を通して、日々の生活の一瞬一瞬に、深く深く根ざしたものとなった。 それゆえに戦争の放棄・戦力の不保持をうたった新憲法の制定は嬉しかった。幼い私の生きる望みとなった。小学四年の子どもがまさか?それは決して誇張ではない。政府は新憲法への理解を深めるため『新しい憲法 明るい生活』という小冊子を作って全家庭に配布したが、私はそれを小さな胸を躍らせて読んだのだ。 もう決して軍隊は持ちません。日本は、平和な新しい日本に生まれ替るのだーこれは当時の全国民の一致した願いであり、決意だったのではないか。 しかし、平和はやってはこなかった。時代はたちまちおかしな方向へ進んでいく。ここで時代との葛藤に触れる紙幅はもはやないが、こうして多感な青春を送っていた私を大きくゆり動かし、励ましてくれたのがネルーダの詩であった。
芽をだそうとするすべての 小麦のために平和を 茂みを探すすべての 恋人のために平和を くらしをいとなむすべての 人たちのために平和を すべての土と、水のために平和を ネルーダ 片田舎の書店で手にした「平和」という雑誌の巻頭に飾られていた。詩は私の平和への願いを、もっともっと深いところから、人間と自然の全存在への愛を込めて書かれていた。永く、愛唱した。 そしてこの詩は、私を詩に導く最初の詩となった。のちに山村暮鳥や中原中也の詩に親しみ、詩を書くようになるのだが、ネルーダの詩は、言葉のひびきを大切にしたい、短い言葉で限りなく深いものを言い尽くしたい、という私の詩の技法の原型になったのではないかと思う。 とまれ!戦後六十七年、母の悲しみは癒えたか。政治に多感な少年は平和の光を手にしたか。答は否だ。 が、ネルーダの詩は今も、平和を願う人々のたたかいを励まし続けている。
(二○一二、一○、一五発行 『千葉県詩人クラブ会報』第二一九号) |
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八月十五日
灼熱の光輝く日
北庭の樹々と青い空
南庭の庭木とその向こうに広がる稲田と山と青い空
疎開先
讃岐塩江の母の実家の
開け放った母屋の真ん中に寝っ転がって眺めた夏の日の記憶
玉音放送を聴いた訳ではない
ラジオニュースで知った訳でもない
けれどもそれが八月十五日であったことを
少年は鮮明に覚えている
なぜなら
太陽の光があんなに澄み切っていた日が他にあっただろうか
太陽の光があんなに輝いていた日が他にあっただろうか
静寂の中で万物が
あんなにきらきらと輝いていた日が他にあっただろうか
父が戦死したという公報が届くのは
その日から一年も後のことである
少年の目にまばゆい
夏の日の記憶である
(平成18年10月21日千葉県詩人クラブ発行、 『千葉県詩集』第39集〈2006年版〉より) |