この町の生い立ち
入植直後の起居地
リニューアル初版(2006年4月)
改定:2012年2月17日


合宿所を建てました 入植はしたものの住むに家なし、起居地は転々としました。第1次入植者は44名でしたが、余りの厳しさにうち12名は間もなく離脱したそうです。 (「上志津原たより」の300号記年号より)
 最初は全員が、当時千葉市若松町にあった「航空第五教育隊の兵舎」に起居していたようです。
(現在ここは「陸上自衛隊下志津駐屯地」になっています。最寄の駅はJR総武本線の都賀駅です)
そこから開墾のため通っていましたが、直線距離でも7〜8kmありますので片道2時間近くかかって
いたと思われます。
 間もなく上志津の「西福寺」に起居できるようになりました。当
時有力者だった、小沢吉兵衛氏に頼んだそうです。
 ただ、全員を収容できるほど大きなお寺ではなく、一部はそ
のまま教育隊の兵舎に残ったようです。
 (写真は現在の西福寺・・・詳細下段に)
西福寺
 そして、入植直後には自分達の手で合宿所を造りました材料は、航空第五教育隊の
建物を払いげて貰った古材で、場所は上志津原北側の谷津(低地)でした。ここに拠点ができた事
で開拓は本格化しました。 (現在は、上志津字原山という地番の団地になりつつあります)



その合宿所は
合宿所のあった場所 2009年 ダイナミックゴルフ練習場から撮る 2012年 同じ場所からゴルフ練習所は閉鎖)
赤い■が3棟の合宿所 ダイナミックゴルフの北側の低地にあった様です。 縮小図でいう合宿所は、中央の立て看板の左側付近だったと思われます (立て看板は健在ですが)宅地化の波が押し寄せ、合宿所跡だったという雰囲気は失せました。

合宿所の写真 3棟の合宿所はこんな様子でした。これでも新築です。
物凄いバラックで、居住性は押して知るべし・・・ですね。

合宿所の(大体の)平面図
合宿所は出来ましたが図面の左に書いてあるように、開拓者の1部は千葉の航空第五教育隊から通っていた人もいたようで、ここには全体の6〜70%、20数名が起居していたと思われます。尚合宿所には入植翌年4月、個人住宅が出来上がるまで起居していました。
 入植は殆どが昭和21年1月から3月までに行われ、1時50名を超えました。しかし厳しい生活環境のため脱落者も相次ぎ、1年後には34名になりました。残った人の出身地は東京9名・栃木7名・新潟と長野4名・沖縄3名・広島2名・長崎 石川 神奈川 そして地元千葉から各1名でした。

 資料には、入植者何名と書いてありますのでその通りに書いていますが、妻帯者が13名いたそうです。従って入植世帯数34世帯、うち独身世帯が21世帯になります。
 尚、この資料(写真・間取り図など)は、昭和62年3月当時の町会が開催した「上志津原のあゆみ展」で展示されたものです。



西福寺(さいふくじ)詳細   2007年9月26日撮影…彼岸花が咲いていました
下の写真(右側)にある案内板(S48年設置)によると、西福寺は約350年前「稲野山千手院の隠居寺」として建立されたとありますので、今からだと370〜80年前のお寺です。本堂は立替えられたばかりの様ですが、建立時に植えられたという樹木はどれも巨木で、400年近くの風格を感じます。

これらの樹木のうち銀杏・カヤ・ケヤキは、佐倉市の「保存樹」に指定されています。
「カヤ」 「銀杏」 「ケヤキ」


戻 る


inserted by FC2 system